中越地震活動報告書

ひどく、ブログを放置してしまっていました。。
あー、きづけば約二週間ほど。。
この空白の期間に何があったってなんせいそがしすぎた。。
まじ、無謀な計画を立ててしまいそのつけが今どっと押し寄せてる
訳で。。  

いやね、この無謀な計画ってのは、思い立ったがすぐ行動派、勢いで
日々日常の大半を占めてる裕子は一人、新潟へ行ってきてしまったのよ。

きっかけは、テレビで見た「疲労死」とかいう皮肉な現象に
かなり衝撃を覚えて気づけば、交通手段を探り出しとったわけです。う

4日間の短期滞在だったんだけど、まじ裕子なりに
多くを得た気がする。ボランティア活動は地元でそれなりに
やってるものの、災害系は初で戸惑いながらで新潟着いた時も
(ありゃー、ついちゃった。。)なんて気になったし。

活動報告としては、主に家屋の片付け、ローリングと名づけられた
一軒②、直接被災者の元へ行ってニーズを聞きその場でできる事
をすべてお手伝いするっていういわば掃討作戦w
わずか4日間で総勢、何十名の方と出会えた。

この4日間を通して裕子は人間のもろさと力強さ、両面を見た
気がする。どっかーーーんと馬鹿でかい災害に襲われて家ももろとも
くずれてしまい日常生活を一瞬にして奪われた人々の精神状態とは
まさにそこに人間の素性が露呈されてると思う。

中には、もう何も守るべきものは残ってないと嘆く一人暮らしの高齢者の方もいらっしゃった。
それでも、明日という物理的時間の流れに沿わなくてはならず
そして何より生命活動をしなくてはならない。
これは、もしかしたら悲観的に捉えられる事かもしれない。
失礼とは承知しながらあえて言わせていただくが浮浪者と同じ
境遇に立たされたと思われてしまう瞬間もあるんじゃなかな。
でも、裕子はそれがうらやましくてすっばらしう美しく見えた。
だってそれでも、それなのに生きようとしてしまう本能って
すげーと思う。
じゃー今の裕子は日常、何のために何を守るために生命活動を行うのか
被災者と何が違うのかすげー考えた。
もし、この明確な答えが出たら裕子、これから迷うこと
なく日々をすごしきれるんじゃないかな。
だって、優先すべきものさえはっきりすれば選択肢が
いくら目の前に並べられようとも答えはあっさり見えるでしょ。

被災者の方たちはきっと今生きようとするその先には
今までのアタリマエな生活があるんだろうな。
毎日、起きて仕事行って適度な人間関係のしがらみに
なやまされつつ帰宅して家族となんでもない会話をする
これって、絶望に立たされている人々を生に向かわせる程に
強く幸福なことなんじゃないのかね。

なーんて考えたり、してた。

とにかく、向こうではよく泣いた。それっていろんな涙で
被災者の心が乗り移って思わずトイレ行って泣いたり
心が触れ合ってあったかすっぎて泣いたりだとか理由は様々だけど
とりあえず泣いた。

こんなおこちゃまな女子大生にできる事はすごく②微量かもしれない。
出発前にいろんな事言われたりして実際迷ってみたりもした。
でも、やっぱり行ってよかった。
ボランティア活動に自己満や偽善がまったく無いとは思わない
むしろ裕子なんてもしかしたら自分では自覚してないが大半がそんな
理由かもしれなくって動機は不純なものもあったかもしれない。

でも、困ってる人を助けるのは今が幸福である人間の義務に
感じる。それってボランティアっていうのにぜんぜん限定はしなくって
ミクロな観点でいえば友達のお悩み相談だってその延長戦にあると思う。

裕子はそこにリアルな感動と幸福感をすげー感じた。
裕子、利益やら財産やらではなくこんな毎日が送れたらなって。
まじ、それは偽善ぬきで今できることはすべてやってあげよーって。

お助けに行ったのに、逆に多くを教えてもらっちゃった。
裕子が敏腕女社長だったらざっくり義援金あげたかったな。。
やっぱり、人助けにお金も不可欠。。これもまた事実。
このお金と人助けの関連性については又後日。。

でも、何よりも2日間まるまる活動したお宅のお母さんに
三つ指立てて言われた「一生、忘れませんから!!」

こんなありがたい言葉言われた事なかったな。